マリー・アントワネット

bleulavande2007-03-09

ソフィア・コッポラの「マリー・アントワネット」について、これまでいろいろ言ってきたが、上映最終日の今日、結局観ることにした。


彼女の作品は、良くも悪くも「お嬢様の、お嬢様による、お嬢様のための」作品で、本作もその通りであった(彼女自身もフランシス・フォード・コッポラの娘という「お嬢様」)。

どういう意味かというと、

①「きれい」
②「かわいさ」
③「おそれ」

の三要素が、画面全体に隙間もなく盛り込まれているということである。


マリー・アントワネット」に即して説明すると、

①の「きれい」というのは、「上品」といってもいいかもしれない。ブルボン王家に嫁いできたハプスブルク朝のマリア・テレジアの末娘が主人公なので、当たり前なのだが、ロココの華美な服装、ヴェルサイユ宮殿その他の荘重な室内装飾、宮殿敷地内の青々とした芝、差す光、澄み渡る空などのなかで物語は進行する。

圧巻は、マリー・アントワネットの誕生日会で、夜明け近くに庭に出て日の出を眺めるシーン。画面の三分の一ほどを緑が占め、中央は王妃とその友人らが配置される。彼女らの前方には池がひろがり、陽光とまだ薄暗い空が画面を覆う。これらのコントラストはなかなか美しかった。


②「かわいさ」を代表するのは、ドレスや靴、指輪、首飾りなどの装身具、子犬、お菓子などであろう。繊細で愛らしくて抱きしめたくなって、胸の奥がきゅっとする。言葉にするとあほらしいのだが、そんなものばかりがでてくる。スクリーンの中のかわいい品々を目をきらきらさせながら見つめ、憧れ、「萌える」お嬢様の顔が目に浮かぶ。


①②が、日常から乖離した憧憬の対象であるとすると、③は厳しい現実に直面するお嬢様の内面のありようを意味している。

政治の事情で、本人の望まない内に15歳で嫁に出されたマリー・アントワネット。早く子どもを産めと連呼する世間。自分に興味を示さない夫との冷たい夜。このような状況の中で、マリーは、投げかけられる根拠のない無い噂(彼女は不感症である、子どもが産めない体である、○○とベッドを共にしたなどなど)に耐えつつも、幸福を求め生きていくのである。



純化すると、処女作の『ヴァージン・スーサイズ』の主題が、自律せざるを得ない状況に直面して自律に失敗する(自殺する)お嬢様であり、第二作の『ロスト・イン・トランスレーション』が、自律できるかどうか不安だが自律しなくてはいけないと決意するお嬢様を主題にしていたならば、三作目の『マリー・アントワネット』では、自律に成功したけれど救われなかったお嬢様が主題であると言える。

結論はどうあれ、お嬢様というものは、上に書いた三要素を愛玩し執着する生き物である。

こういう「思い込み」がソフィア・コッポラ監督の中に厳然と存在するから、彼女の作品はいつも好き嫌いがはっきりと分かれてしまう。厳格な彼女の定義に共感できない人は、彼女の作品をあまり評価しないだろう。万人に開かれた作品になっていないのである。そして、普遍的であるべきだという態度など、どうでもいいと思っているようなきらいが彼女にはある。その執拗さは排他的とも言っていいのかもしれない。そういう姿勢でつくられたものは「芸術」作品と呼べるのかどうか。



彼女の作品からは、おそらく彼女の意図に反して、いつもいろいろと考えさせられる。